青灰色
銀嶺の檻
レッツ修行。
それはにぎやかな少女と過ごす、何度目かの休日だった。
ヒカルはランティスに剣術を、フウはフェリオにセフィーロの地理や歴史を教わっているとプレセアから聞いていた。
剣術や昼寝ばかりしていた王子にとって負担ではと案じたが、異世界から来たフウにとっては初歩的な知識でも新鮮なようだ。加えて、フェリオは長らく城を出て旅に出ていた。行動派のフェリオと読書家なフウでは、それぞれの経験と知識が良い刺激となっているようだ。
ほぼ時を同じくして、ウミも「魔法を教えて欲しい」と請うてきた。初めてセフィーロに召喚され、魔法を授けた時「一度魔法を使ってみたかったの!」と叫んでいたのはよく覚えている。あの時自分は「愚か者」と一喝したが、どうやら本気だったようだ。
魔法を授け、習得へと導くのは最高位の魔導師が担う責務の第一である。
柱制度が消滅し、新たな摂理体制へと移行したセフィーロで自分が為すべきことが多いのは事実だ。だが魔法騎士として短期間に自らを高め、死闘を越えてきた彼女を指導できる魔導師はそう多くはいない。新しい魔法を習得したばかりの頃は力の制御が上手くできずに、疲弊するばかりか、時として力が暴走してしまう。師にはそれを制御できるだけの高い能力が必要だからだ。
それにウミといると肩の力が抜けるのを最近気づいた。
国の指導者としてではなく、一人の人間として、真っ直ぐな物言いをする彼女と過ごす休日を、何時のころからかクレフ自身楽しみにするようになっていた。
場所は城から離れた海岸。
広い空間と、何より彼女の属性である水が豊富なところを修練の場に選んだ。
「ウミ、先日の課題はもってきたか?」
「もちろんよ!」
そう言って彼女は鞄から一枚の紙を取り出した。
「水を超高圧に噴き出すことで、岩でも裁断することができるらしいわ。
あと高原とかで霧となって視界を防ぐのも水。
雪もまた、水が形を変えたものよね。
あとはお風呂や火山の蒸気。霧と少し似てるけど、こっちは熱くて火傷しちゃう。
最後は虹。雨上がりの空気中の水に光が当たることで起きるわ。」
すらすらと紡ぎだされる解答内容に、私は目を細めた。
「合格だ。ちゃんと5つ、考えてきたようだな。
お前が選ばれた魔法は水の属性。空や大地にあまねく存在する水は、温度や圧力によって様々な形をとる。その姿を自然現象の中から学ぶことで、自らの魔法のイメージが膨らむ。
魔法の習得には意思の力が不可欠だが、こうやって自分の属性と向き合うことで、その習得を早めることができる。」
「じゃあ、魔法で雪や霧を作り出せたりもするの?」
「もちろんだ。この砂浜一体を雪原にすることも可能だろう。」
だが、と一端言葉を区切る。
「お前は何のためにその魔法を使う?安直な気持ちで使えば、術者は魔法に飲み込まれるぞ。」
ウミは真正面から私の視線を受け止めた。その大きな瞳に迷いはなかった。
「セフィーロを、この国の人たちを、まだ残っている魔物から助けるためよ。」
少女の高らかな宣言が耳を打つ。その言葉は強い意志をはらみ、深海のような荘厳さをたたえていた。
そう、彼女はもう初めて会った時のような幼いままではない。
柱の消滅によって傷ついた国土は、いまだ夕闇に紛れて魔物が跋扈する。
その数は少しずつ減ってはいるものの、多くの民にとっては脅威で、城に避難していた民が帰還するのを阻む大きな要因だった。
早く人々が元通りの暮らしができるよう、彼女なりにできることはないのか、考えてのことだろう。
「ウミ、その嘘いつわりない気持ちを私は嬉しく思う。
だが、その時が来ても、自らを守ることを優先してくれ。これは私の『願い』だ。」
本当はこれ以上、異世界の少女を危険な目に遭わせたくはない。
だがこれは彼女の意思なのだ。
城に大人しく留まらせることは、彼女の尊厳を奪うことになる。
微かな痛みを胸に感じたが、気付かないふりをして私は腕を翳した。
ウミはそれに応えるよう、膝を折って私に頭を向けた。
さらさらとした前髪を分け、その額に指を押しあてた。
程なくして、触れた部分が熱を帯び始める。
「ウミ、もう一度、今の気持ちを強く思い浮かべるのだ。」
額に押し当てた指先は火照るというより、最早火傷するような熱さだ。
ウミの内側から沸き立つ焦熱が、激情が、切望が、波濤となって押し寄せてくる。
あまりの勢いに、クレフは驚きに目を見開いた。
対照的に、極限まで感覚を研ぎ澄ませていたウミの目は刃のように鋭かった。
「・・・銀嶺の檻!」
鋭く、少女の声が響き渡る。
それはクレフが杖を大きく薙いだのと同時だった。
ゴウッと、大きなうねりを上げて吹雪が海岸を覆う。それはもはや粉雪が舞うなどという可愛いものではなく、激情のまま荒れ狂い、制御できない猛吹雪だった。
魔法で生み出された雪は地面だけでなく大気中にも溢れ、その真っ白な脅威がウミの視界を奪った。上下左右がわからない位の白銀の中で、肌に叩きつけられる弾丸のような雪にウミは愕然とした。
自分が起こした魔法が、自分自身を傷つける。これがクレフが言っていたことなのだろうか、という恐怖がよぎった。
そのクレフは今、どこにいるのか。名を呼ぼうとして、口を開けた瞬間粘膜を焼くような冷気が喉を刺激した。苦しみに体を折り、ウミは激しく咳き込んだ。
その時だった。
「炎爆召来!」
呪文が叫ばれると同時に、ウミの周りを覆っていた白い檻を炎が猛烈な勢いで裂いていった。
「ウミ!無事か!!」
焦りを滲ませた瞳を極限まで開いたクレフの姿を認めた刹那、ウミの意識は闇におちていった。
崩れ落ちた華奢なウミの体を肩で抱きとめたクレフは、杖に込める力をより強くした。
クレフが生み出した炎は壮絶な勢いで、ウミが作りだした極寒の世界を駆逐する。術者が意識を失ったことで力の源を断たれた吹雪は、程なくして昇華していった。
それを最後まで見届けることなく、クレフは愛用の杖を放り投げた。
「ウミ!しっかりしろ!」
短い時間だったにも関わらず、冷え切ってしまった頬を何度も叩く。
元々色白な彼女の肌は青白く、その眉根は苦痛に歪んでいた。
最早迷っている暇はない。クレフは迷うことなく、その唇に自らのを重ね、気を直接送り込んだ。薄く開いた唇を舌で強引に開き、角度を変え更に深く口づける。心の臓がある辺りに手を翳し、そこからも気を送る。
(ウミ、目覚めてくれ!)
祈るような思いで、ウミの細い肩を握る力をより強くする。もう一度顔の角度を変えようと、一瞬顔を離した瞬間、ウミの表情に変化が起きた。
「う、う・・ん?」
ゆるゆると長い睫毛が持ちあげられる。それを見たクレフは肩の力を緩めた。
「ウミ。良かった。どこか痛むところはないか?すぐ手当をしてやろう。」
「・・・クレフ?え、わたし・・・は?」
「魔法の力を抑えきれず、そのまま『心』の力を使いすぎたのだ。
・・・・私が傍にいながら、恐ろしい想いをさせたな。許してくれ。」
しばらく、ウミは夢現でクレフの腕の中に収まっていたが、徐々に状況が飲み込めてきた。
何故、自分が倒れているのか。何故、クレフが沈痛な面持ちで自分を抱きしめているのか。
クレフの声音は深い労りと憂いを表していたが、瞳は安堵を湛えていた。
ふと、ウミは違和感を覚える。いつもは見下ろす側なのに、逆の立場だからだろうか。
違う。口の端に、彼に似つかわしくない紅が滲んでいる。
「クレフ、これ、どうしたの・・・?」
指摘されたクレフは「ん?」と怪訝な顔で自らの口角を撫でて、その色を認めた。そして何食わぬ顔で言った。
「お前に口づけた時に付いたのだろう。気を直接送り込まねばあや・・・」
危うい所だったのだぞ、という言葉は最後まで続くことはなかった。
「く、くちづけぇぇええええ!!??はあああ!?」
耳をつんざくような大音量。先程まで気を失っていたとは、思えない勢いだった。
クレフは思わず目を閉じたが、耳にはキンキンと強烈な抗議の声が入ってくる。
「何を言っている!心を使いすぎて、眠ったままになるよりは良いだろう!」
「それは、そうだけど!でも!でも!!」
青かった顔は、今度は夕陽のように赤くなっていた。口を何度か力なくパクパクさせたかと思うと、ウミは俯いた。
クレフは一つ溜息をつき、渋面を作った。
「・・・ただの応急処置だ。相手が私では不服だったかもしれんが。」
「違う!クレフが嫌なんじゃなくって、むしろ・・・」
そこまで言ったウミははっとして、もう一度俯いた。だが、耳まで赤く染まった彼女の肌色は隠せない。
今度はクレフが驚く番だった。
いま、彼女はなんと言おうとしたのだ?
聞き間違いではないだろうか?
もちろん処置をした時、やましい気持ちは一片もなかった。
自分はセフィーロで最高位の導師として、人々の信頼を集める身だ。
いかなる時も、私心を挟むことは周囲だけでなく、クレフ自身が許していない。
だが、目の前の彼女は違う。
異世界から召喚された身で、このセフィーロの常識は通用しない。
自分が童形をとっていようが、年が離れすぎていようが、師匠と弟子であろうが。
自らの気持ちを偽ることなど、できないのだ。
いつだって真っ直ぐで、見ているこちらがはらはらしてしまう程。
クレフはその聡明さ故、少女が隠そうとした気持ちに気付いてしまった。
胸の奥から、暖かな気持ちが湧きあがる。
そして、それは彼の長い人生の中で久方ぶりの経験だった。
「ウミ、それは、つまり・・・」
ウミは身を捩じらせ、クレフの腕の中から逃れようとする。だがクレフが拘束する力を強め、それを許さない。体格差はあるが、体力を消耗した少女の細い体を抑え込むなど、造作もないことだった。
「お願いだ。応えてくれ。
私を厭うているのではなく、その、慕ってくれているのなら・・・教えて欲しい。」
ウミは赤い顔を伏せたまま、更に身を縮こませた。どうやら黙秘を決め込んだようだ。
「・・・応えてくれぬのなら、このまま離さぬぞ。」
「ええ!?何なのよそれ!?」
「何だ、口がきけぬ訳ではないようだな。」
からかうようなその口ぶりにウミも思わず噴き出した。くすくすと、笑ったクレフは腕の力を弱めた。しかし、ウミはその体を離そうとはしなかった。
意を決して、宝石のような青い瞳を見上げる。
「クレフ、あのね、私・・・・」
少女の密やかな告白は、波音に紛れて誰にも聞かれることはなかった。
ただ一人を除いて。
それはにぎやかな少女と過ごす、何度目かの休日だった。
いつもと変わらないような穏やかな午後は、二人が『師と弟子』の敷居を踏み出した特別な日となった。

