その日はセフィーロとファーレンとの間で修交条約の調印を行うため、城内全体が慌ただしかった。アスカから全権を託された大使が前日から入り、昼前には調印式が行われることになっている。
フェリオは次期国王として、クレフは国の指導者として、ランティスは親衛隊長として、それぞれ式典に出席していた。
『条約といっても、内容は既に固まっている。今日は調印と会食だけだ。終わるまで退屈させるが、それまで私の部屋で待っていてくれ。』
朝方、異世界から訪れた海はクレフから告げられた言葉を頭の中で反芻していた。そうは言っても、光は剣道の大会、風は模試があるとかで今日は一人で来ている。一人部屋でじっと待つという性分ではないことが、海自身よくわかっている。何より、古い本や薬草の匂いが満ちたこの部屋は主の不在を主張し、寂しさが募る。
(少しくらい、外に出たって大丈夫よね。)
海は城内の散策をしようと思い、そっと扉を開いた。回廊は静寂に満ち、人気はない。セフィーロで初めて交わす条約の場に、ほとんどの人が集っているようだ。
元より勝手知ったる城だ。迷うことなく海は中庭に向かっていた。
そこはかつてアスコットの友だちが果物をとっていた庭だった。燦々と光が差し込み、緑にあふれている。そして甘酸っぱい香りを胸一杯に吸い込み、海はにっこり笑った。少し摘んで、クレフのところに持っていけば疲れも和らぐかもしれない。よく見れば、海の身長でも十二分に届く果樹もある。
そうと決まれば善は急げだ。海は手慣れた様子で、果物を摘み始めた。
よく熟れて食べ頃のブイテックを丁寧にもぐ。持ってきた籠の中に一つずつ収めるのに夢中で、海はその場に人が訪れたことに気づかなかった。
『なんと、異郷で名花に会うとは。』
男性の声で話しかけられて海はハッとした。振り替えると、こちらの世界でいう中華風の、おそらくファーレンのゆったりした衣をまとった青年がいた。中庭の入口に立っていた青年は真っ直ぐ海に向かってくる。
そして果物を包んだ海の両手を、迷うことなくとりしっかり握った。突然のことに海は驚いたが、異世界のしかも異国からの客人だ。何か、自分に用があるのだろうか。そして真剣な目で海の顔をのぞきこむ。
『可憐な名花、どうか名前を教えてはくれませんか?』
メイカ、とは何のことだろう?銘菓、ならお菓子だが、もしかしたらこの果物のことをきいているのかもしれない。
『ブイテックよ。良かったら食べてみる?』
そう言って、海は枝葉のついた果実を差し出した。すると相手は一瞬目を見開いたかと思うと恭しく果実を受け取った。そしておもむろに腰に下げてあった大きなドーナツ状の宝石を外した。その宝石は翡翠色の澄んだ色をしていて、結び付けられた緋色の組紐がよく映えている。装身具として一級品だということが、知識の乏しい海でも分かる。
相手はなんと、その豪奢な宝石を海に差し出した。
海の頭の中にはいくつものクエスチョンマークが浮かんだ。果物の代金としては、高級すぎやしないだろうか?もしかしたら宝飾品を見せてくれることが、ファーレンでは何か意味があるのかもしれない。見せてもらおうと、手を伸ばした刹那。
『無價の寶を得るは易きも 有心の郎を得るは難し』
中庭に朗々たる声が響いた。よく知った声に、海は勢いよく振り返った。
『クレフ!お仕事はもう終わったの?!』
姿こそ幼いが、威厳に満ちた立ち姿は唯一無二のものだ。純白のローブに巨大な杖、何より強い意志の力を秘めた瞳。だが今はその瞳に咎めるような色が浮かんでいる。
海が怪訝に思うより前に、クレフは大股で中庭を横切り青年の鼻先に杖を向けた。剣呑な空気に青年の顔にも狼狽が浮かんだ。
『酒に酔って花を盗むか。今ならまだ未遂だぞ。』
『な!クレフ!何言ってるの!?』
今度は海が驚愕した。この青年は花など盗んでいないし、果物を差し出したのは自分だ。これは何かの間違いだと、弁解しようとした。
だが予想に反して、青年は気まずそうに宝石を持った手を下ろした。そして一礼すると、元来た道を引き返していった。
なんのことだか分からない。海はクレフの険しい横顔を見た。だが彼は剃刀一枚入る隙間がないほど、張りつめた空気をまとっている。
視線を感じたのか、クレフはじろりと怒気を孕んだ目を向けた。眉間の深い溝が不快感を主張している。
『言ったはずだ。部屋で、待てと。』
一つ一つの言葉を区切りながら言われると、更に迫力が増した。何故ここまで怒っているのか、戸惑いながらも海は応えた。
『そ、そうだけど、どうして』
『分からないのか?!お前は今、あの者からの求婚に応じようとしていたのだぞ!?』
求婚、という耳慣れない言葉を理解するのに数秒かかった。理解すると、その突拍子のなさに海は愕然とした。
『え、ええ!?な、なんで、私そんなつもりじゃ』
呆れた様子でクレフは大きな溜め息をついた。そして文字通り、頭を抱えた。
『お前たちの世界ではないのか。いや、こちらでも古いしきたりなのだが・・・名花とは美しい女性を表現し、請われて名前を教えることは心を許した証。そして男女が花木と宝玉を交換することで、未来を誓いあった仲という意味になる。』
『そんな、私、自分の名前なんて・・・』
『さしずめ果物の、ブイテックの名前をきかれたとでも勘違いしたのだろう?そして花木を差し出されて、断るのは女性への侮辱に当たる。』
呆然とする海に、クレフはもう一度、大きな溜め息をついた。
『だから部屋から出るなと言ったのだ。今日は大勢の使節団が締結のために訪れている。もし不心得ものがいたらと案じていたが・・・お前が部屋を出た気配を感じて来てみればこれだ。』
なるほどクレフにとっては面白くないどころか冷や汗ものだ。異国の青年と自分の恋人が将来の約束を交わそうとしていたのだ。知らぬこととだったとはいえ、異世界の慣習に疎い自分が恐ろしくなる。
普段賑やかな少女が絶句していることから、さすがに懲りたようだ。
『さぁ、私はまだ務めが残っている。お前も驚いただろう。部屋に戻って休むといい。その前に、』
クレフは小声で呪文を唱え、杖を軽く振った。淡い燐光が生まれ、海の右手に吸い寄せられていった。すうっと輝きが収まると、薬指に黄金色の指環がはめられていた。二粒の紺碧の宝石を、精緻な金色の蔦模様が取り囲むデザインだ。
海は驚いた。
思慮深い彼が大胆に。雄弁な彼が言葉少なく。そして博愛主義の彼が支配欲を示している。
『クレフ、これって・・・・』
『待っていて欲しい。 』
伏し目がちの瞳は深い情愛を孕んでいた。彼は指環ごと海の手をそっと撫でたかと思うと、また足早に去っていった。一連の行動の鮮やかさに、胸に焔が灯るのを感じた。
部屋に戻る道すがら、ぼうっと熱を持った頭で考えた。
待っていて欲しい、とはそれは彼の仕事が終わるまでという意味か。それとも古式に則った求婚をするまでという意味か。
どちらでも良い。この世はたくさんの意味や願いに溢れている。それ故に自分たちは時にすれ違い、時に絆を深め合う。
この二つの宝石にはどんな意味が込められているのだろう。それを教わるのも、今から待ち遠しい。
典雅な指環が国宝級の名品であることを知るのは、もう少し後のこと。
昔は投果婚という風習があったらしいです。詩経の『木瓜』には桃や李に対して、佩玉をあげていたそうです。
あとクレフが登場した時に言ったのが魚玄機という唐代の女流詩人の詩の一部です。『高価な宝物を得るのは簡単なのに、真心を持った男の人を得るのはなんと難しいのだろう』という。なんつー嫌味なことを言わせてるの自分。
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